其之伍〜歌詞の愉しみ方〜
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日本語の曲
私は日本語が好きです。そして私は音楽が好きです。にも拘らず私は余り日本語で唄われた歌を聴きません。それは、歌詞が余りにも稚拙過ぎるからです。
今回は、日本語の歌詞の現状と将来を語る事にしましょう。
情報の確認
では早速語りましょう‥と行ってしまうと、恐らく多くの人が混乱してしまうと思われます。
そこで、先ずは基本的な情報の整理をしておきましょう。ここでは解り易い様に日本語、英語、そして中国語を比較し、確認して行く事にします。
表意or表音
英語の音を構成する要素はa〜zの26字。これらを組合せて用います。例えば“apple”はaやpが“林檎”という意味を持っている訳では無く、“apple”の表記全体で“林檎”を表します。aやpは只音を持っているに過ぎません。この様な特徴を持った文字を“表音文字”と言います。
対して中国語は、漢字1字1字が夫々固有の意味を持っています。“山”や“河”等、各々は違う対象を指しますね。この様な特徴を持った文字を“表意文字”と言います。
では日本語はどうでしょうか。中国語の例を見ると一見日本語も表意文字の様に思われます。が、日本で用いられている字は漢字だけではありません。平仮名や片仮名もそれと同様に、いえ、それ以上に使われています。これらは決して表意文字ではありませんよね。ですからどちらに分類するかは難しい所なのですが、“わたし は がっこう に いきます”とは書けても“私学校行”とは書けない事から、ここでは表音文字としておきましょう。
抑揚の有無
英語には抑揚があります。中国語も然り。では日本語は‥?
普段は抑揚を付けて喋りますが、それでも他言語に比べると圧倒的に少ないと言えます。しかも、格別無くても通じます。
ここでは0か1かに区別した方が解説し易いので、“無い”としておきましょう。
消音の有無
英語には消音があります。例えば“Let me tell you”を“レットミーテルユー”なんて発音はしませんよね。寧ろ“レミテユ”‥これにアクセントを付けた様なものでしょう。これを消音と呼んでいます。
対して日本語は“貴方に教えよう”。1文字でも省略すると言葉として通じません。因って日本語に消音は無いとしましょう。
最後に、中国語に消音らしきものは見られませんが、表意文字であり抑揚を持つ中国語に消音は、特に必要無いと言えそうです。
押韻の有無
皆さんが中学時代に習った様に、中国語には韻を踏む‥つまり“押韻”という技術があります。これは英語にも組み込まれているものですね。

Resurrection - Halford

I'm digging deep inside my soul

To bring myself out of this God-damned hole

I rid the demons from my heart

And found the truth was with me from the start

-Bridge-

Holy angel lift me from this burning hell
 - resurrection make me whole

Son of Judas bring the saints to my revenge
 - resurrection bring me home

文法上名詞を文末に持って来る事が出来る英語や中国語は、押韻の手段が非常に豊富なのです。
しかし日本語は、通常文末には動詞の活用形が来てしまいます。勿論体言止め等で回避し得ますが、限度があります。“押韻は出来無い”としてしまった方が、より現実的な見解でしょう。
特徴一覧表
以上の基本的な情報、解って貰えたでしょうか。ここに特徴を纏めた表を作っておきましょう。
語\特徴意or音抑揚消音押韻
中国語×
英語
日本語×××
向き不向き
さて、これらから何か読み取れる事がある筈です。
物事を伝えるには沢山の音素が必要不可欠であり、押韻による統一感を出す事が出来無い‥そうです。日本語は、歌詞にするには悉く不向きな材料が揃い過ぎているのです。
これは決して日本語が劣っているだとか、そんな優劣を付けているのでは無く、只認識すべき事実として述べています。
“日本語は音楽に乗せ難い”‥これが事実なのです。
日本人の解
勿論、日本人も馬鹿ではありません。昔は昔、太古の昔からこんな事は既に知られていました。そして知った上で彼等は幾つかの“解”を出しています。
型に嵌める
その1つが型に嵌める事です。五音と七音の枠の中で様々な表現を見出だした和歌や俳句は、この代表的な例だと言えます。
この解はダブルミーニング‥つまり“掛詞”という技法をも生み出す事となりました。
音階で補完
1つの音素に数種類の音階を持たせる事で独特の味を持たせるものです。
詩吟や能楽、演歌等に見られるこの手法は、日本特有の“和音階”を作り出しました。
音楽の輸入
しかし1960年代にもなると、国外から様々な異形の音楽が輸入されてしまいます。中でも決定打となったのが“テンポ”の概念です。
それ迄はスローテンポの中に詩を描く事で音楽を奏でていた日本は、その近代的なテンポアップへの移行を余儀無くされます。しかし日本語は上に挙げた性質上、短い区間に沢山の表現を入れる事は出来ません。
この時、背反する2つのものが“してはいけない融合”をしてしまうのです。
最悪な音楽
“1節に沢山の表現を組み込ませられない‥ならば表現を簡潔にしてしまえ”
恣意的にせよ結果的にせよ、日本語の歌詞が大して意味を持たない、スカスカの内容になってしまったのです。
“愛してる、夢を追い掛けて、希望を持って、1人じゃ無い”‥
生まれた歌詞は、直接的な単語の羅列に過ぎません。これでは歌詞を音楽に乗せるのも、只々脳天気に詩を書くのも変わりません。
最悪の相乗
日本語の歌詞は最悪の方向へと向かいました。それでもまだ、マシだったかも知れません。何故なら、まだ理由がきちんと存在していたのですから。
ですが、80年代にもなるとその理由迄もが淘汰されてしまいます。
“1人じゃ無いから希望を持って”
“夢を追い掛けている貴方を愛してる”
塵芥にも劣る様な歌詞が、遂に生まれてしまった瞬間でした。最悪な歌詞を聴いて育った人間が、更に最悪な歌詞を生み出す負の連鎖‥しかし、それだけでは終わりませんでした。
稚拙な表現
そして21世紀。知識的にも環境的にも最悪な音楽に包まれた世代は、あらぬ方向へと暴走します。出来る筈も無いのに、無理にそこへ表現力を持たせようと奮迅するのです。
少し前一部の人達の話題になった“瞳を閉じて”という歌詞は、その典型的な例だと言えます。目や目蓋を閉じる事は出来ても、眼球の一部分である“瞳”を閉じる事は、人間の構造上出来無い筈です。にも拘らずこれを指摘もせず只“良い歌詞だ”だの“感動した”だの崇める現代人は‥
この碌でも無い、悪影響としか言い様の無い歌詞が、今日のメインストリームには溢れ返っています。
蜘蛛の糸を
以上が、私の日本語の歌詞等聴いていられない理由です。
しかしながら、まだ希望はあります。この腐ったメインストリームを修正し得る素晴らしい技術を使うアーティストが、確かにいるのです。
以降は所謂“邦楽”の未来を語る事にしましょう。
蜘蛛之糸其之壱:単音化
日本語は基本的に消音する事が出来ません。が、それをある方法で回避しているアーティストがいます。これは例を見れば一目瞭然です。

Over The Distance - 矢井田瞳

際限なく続いて行く

紺碧な一つの波に乗って

想像は膨らんで行く

環境の変化を憎んでもはかない

音素解説

さい げん な く つ づい て いく

 ∨   ∨  | | |  ∨  |  ∨ 

 ♪   ♪  ♪ ♪ ♪  ♪  ♪  ♪ 

こん ぺ きな ひ と つ の な み に のっ て

 ∨  |  ∨  | | | | | | |  ∨  |

 ♪  ♪  ♪  ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪  ♪  ♪

そう ぞう は ふ く らん で いく

 ∨   ∨  | | |  ∨  |  ∨ 

 ♪   ♪  ♪ ♪ ♪  ♪  ♪  ♪ 

かん きょう の へん かを に くん で も は か ない

 ∨   ∨  |  ∨  ∨  |  ∨  | | | |  ∨

 ♪   ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪  ♪ ♪ ♪ ♪  ♪

1つの音に2つの文字を乗せる方法です。これを私は“単音化”と呼んでいます。日本語の性質を上手く利用したもので、母音(あいうえお)と撥音(ん)、及び促音(っ)が主なターゲットとなります。
この方法を用いれば、曲中で伝えられる文字数が飛躍的に上昇します。その効果は丁度消音の様なものです。彼女はこれを意図的に多用する事で、より沢山の内容を唄う事に成功しています。例示した“Over The Distance”は非常に綺麗な例ですね。
尤も、例えば“こういう風に”は“こーゆーふーに”と音素化して、更に“こゆふに”と迄省略する事が出来ますね。因って、この手法はある意味出来て当然だとも言えます。が、そこに子音が連続するとなると話は別です。“悉く”はそれら総てに子音を含んでいる為、本来ならば“ことごとく”と5つの音で表現する他無いのです。
しかし彼女の場合は、2つの子音を含む文字を単音化する事にも成功しています。具体的には“紺碧な”を“こん”と“ぺ”、そして“きな”への3音化です。これは、実際に聴いてみると理解出来る筈です。
この手法は割とメジャーですから、勿論彼女以外にも利用しています。気になった方はお手持ちのCDを調べてみると良いでしょう。
蜘蛛之糸其之弐:躍韻
文末で押韻する事は無理であっても、それ以外の場所で押韻する手法です。これはかなり高レベルな技法だと言えます。

邪魅の抱擁 - 陰陽座

-壱-

思う 燻べる 黒は

恣に 蹂み 躙ると

もう 穢れた 白に

身罷る 此の 皇 譬う 金翅雀

黒とも 白とも

交えぬ 魂 燃え上がり 灰と狎れる

巓に遊ぶ守りは 魁を無くし絶える

手そぶも 馘した

邪魅の子らは 生えて 企み

蛇 顕 尾得て 企み 戯え

-弐-

浪の 骸は

志半ば 文 滲むと

 崩れた 城に

見紛う 此の 絖 今や虎子

玄人も 素人も

交えぬ 魄 燼滅は 魔魅を 殖ふ

巓に遊ぶ守りは 魁を無くし絶える

手そぶも 馘した

邪魅の子らは 生えて 貶み

蛇 顕 尾得て 貶み 翳む兄

仙に余る者は 径を創り 軈て

僊るも 御厨

邪道越えて 抱いて 羽包くみ

戯れて 抱いて 育み 悶え

 纒えど 精神は 錦と

麗しさに 目が眩らむ 悪し物

この手法は‥“躍韻”と呼んでおきましょうか。押韻と同様、歌詞全体に一体感・統一感を持たせる事が出来ます。
特に“黒とも 白とも”と“玄人も 素人も”は音で韻を踏んでいるだけで無く、夫々が対比したものの並列です。これが出来るアーティストはそういません。尚、この歌詞には上述以外にも躍韻が見られますので、探してみると面白いでしょう。
蜘蛛之糸其之参:並唱
日本語は確かに消音が利きません。しかしそれを逆に利点と捉らえ、1つ1つの音に意味を持たせ、同時に重ねる手法です。

邪魅の抱擁 - 陰陽座

巓に遊ぶ守りは 魁を無くし絶える

手そぶも 馘した

邪魅の子らは 生えて 貶み

蛇 顕 尾得て 貶み 翳む兄

仙に余る者は 径を創り 軈て

僊るも 御厨

邪道越えて 抱いて 羽包くみ

戯れて 抱いて 育み 悶える

音素解説

瞬火:てんにあそぶもりは かいをなくしたえる

黒猫:て   そぶも   か   くした

瞬火:じゃみのこらは おえて さげすみ

黒猫:じゃ (あ) らわ おえて さげすみ かすむせ

瞬火:せんにあまるものは みちをつくりやがて

黒猫:せ   まるも   み   くりや

瞬火:じゃどうこえて だいて はぐくみ

黒猫:じゃ   れて だいて はぐくみ もだえる

これは今迄のものとは違い、総ての音をはっきりと発音する日本語でしか成し得ない技法だと言えます。
“邪魅の抱擁”は歌詞全体がある種の言葉遊びとなっている、非常に優れた作品です。私は日本語の歌詞でここ迄完成されたものを他に知りません。
蜘蛛之糸其之肆:英語の導入
日本語で韻を踏むのは少々コツを要します。そこで現在一般的に日本語化されている、所謂“カタカナ語”を使う事で韻を踏ませる手法です。

詩人の鐘 - 浜田省吾

-壱-

未来へのシミュレーション

破滅す時

鐘が鳴ってる 約束の地に 打ち上げられた罪を知る者に

鐘が鳴ってる 聖者のように 魂の声を聞く者に

闇を裂いて閃いてる―やがて1999年

-弐-

プラスティック・インフォメーション

メディア満たす時

鐘が鳴ってる 非武装の地を 争う事なく追われる者に

鐘が鳴ってる 天使のように 愛しい人を導く者に

見守るように遠く深く―やがて1999年

-参-

蒼ざめたイルミネーション

孤独照らす時

鐘が鳴ってる 欲望の地で 誇りと理想に生きる者に

鐘が鳴ってる 詩人のように 傷ついた心いたわる者に

輝いてる清く強く―やがて1999年

“simulation”と“information”、そして“illumination”。どれも“ation”の音で結ばれている単語です。
通常日本語の歌詞にカタカナ語を混ぜると統制が取れなくなり、美しさが損なわれてしまうのですが、彼はそれを上手く回避しつつ現代社会を諷刺する歌を作っています。メインストリームに於いてカタカナ語を混ぜる歌詞は多数あれども、この様な技術的な意味で使われているものは殆ど無いと言って構わないでしょう。
歌詞の未来
ここ迄読んでも“邦楽”の歌詞にどっぷりと浸かった現代人には尚、“何をそんな事に拘っているんだ”と嘲笑されるかも知れません。
ですが、知っている事と知らない事は、やはり違う筈です。
例えば押韻を例に取って説明するならば、押韻はすると統一感が出ますが、敢えてしない事でその部分に注視させる事も出来ます。

Hippies In The 60's - Meja

I don't need therapy

I don't need Disney (to be happy)

I don't need you to tell me

I don't need TV (to be happy)

I don't need to get laid

I don't need an upgrade (to be happy)

I don't need looks that won't fade

I don't need to get paid (to be happy)

-Bridge-

Hippies in the 60's wore flowers in their hair

I can still feel the love vibrations in the air

Hippies in the 60's knew that money isn't God

I wish I was there

この例では“Hippies in the 60's knew that money isn't God”で1度韻が外されています。そこ迄良い調子で来ていたのに、突然“God”と区切ってしまう事で、聴く者にメッセージを伝えている訳です。これは俳句で言えば“切れ字”に近い技法ですね。この様に、押韻を知る者は、押韻が外された部分で作詞家の意図を読み取る事が出来るのです。
これは盲目的に“メロディで1番盛り上がる箇所=サビが良い部分”と思い込んでしまっている人に比べて、より音楽を愉しんでいると言えないでしょうか。
聴く側も作る側も同じです。技術として知っていれば、それを乗せる事も出来ますし、受け取る事も出来るのです。
この日本に生まれ、日本語の音楽を聴く以上は、より沢山の選択肢を以って愉しみたい‥と私は考えています。その考えに対して今の画一化されたメインストリームは明らかに力不足。折角良いメロディラインを生み出す能力を持っているのですから、日本語の歌詞はもっとそれに見合った進化を遂げるべきなのです。そして出来る事ならば、先の矢井田瞳や陰陽座の様な“歌詞で魅せるアーティスト”が、もっとメインストリームに出て来て欲しいものですね。
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