其之捌〜書き手の意識〜
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日本語の‥
近年“文章構成能力の低下”が叫ばれています。その原因の1つには、やはりインターネット(以下“ネット”)があるでしょう。いえ、大きな要因と訂正しておきましょうか。兎に角それ程に、今は日本語が注目されているとも言えるでしょう。
今回はこのネット上の日本語に対する私の見解を述べて行く事にしましょう。
分母の増加
2000年以降ネット上で加速度的に増えている“書き手”。昔と今で決定的に違うのは“他人に見せるかどうか”です。
実際、文章を書く人は今も昔もそんなに変わらない筈。只、昔は誰もがそれを公開出来る訳では無かった為、結果的に市場へ出回る文章は一定の水準が保たれていただけの話です。
つまり、今段々と書き手のレベルが落ちて来ているのは、言ってみれば当たり前の事です。程度の低い文章が分母を増やしているだけなのですから。
良い文章を、綺麗な文章を書く人は相変わらず存在しています。が、彼等が相対的に埋もれてしまっているのが現状です。
区別の委託
問題は美文と駄文、この両者の区別が確立されていない事にあります。
誰でも手掛けられるネットの所為で、小学生と一流の文章家、そして外国人が同じラインに並列されている訳です。尤もこれはシステム上致し方無い事ですから、今回の論点からは外しておきます。
その区別を総て“読み手”に委ねている事‥これが問題なのです。
自由の欠点
ネットの世界に於いて、読み手は文章を恣意的に選ぶ事が可能です。ですから我々は読みたくない文章は無理して読みませんし、興味のあるものをより優先して読みますよね。
文章の水準が一定以上に保たれていた一昔前迄なら、それで良かったのかも知れません。しかし、駄文が分母を増やし飽和状態にある現状では、非常に危険だと思われます。恣意的に選んだつもりの文章が実は駄文である確率が、どんどん上がって来ている為です。
誰でも自由に利用出来るネットが裏目に出てしまっている訳ですね。
駄文の温床
所で、それらの読み手は同時に書き手にもなり得ます。
駄文を読んだ者がそれを駄文だと気付き、自身の文章にはきちんと良い意味で反映させる事が出来れば、勿論何の問題もありません。が、駄文の温床で育んだ判断基準を持つ現代人は、それを悪い意味で反芻してしまいます。
駄文が更なる駄文を生み出してしまう‥これは先の“読み手が書き手にもなり得る”状況が、見事に悪循環と化していると言えますね。
語彙力低下
数ある駄文の中で最も見受けられる特徴‥それが語彙力の低下です。これは私が駄文を毛嫌いする最大の理由でもあります。
語彙が乏しいと、書き手は何に対しても同じ言葉で表現する様になります。いえ、そうせざるを得ないのです。
今の世の中、感想の1つにしても“美味しかった”や“面白かった”が延々と並ぶ始末。元々食べ物は美味しく食べられる様に、そして映画は楽しませる様に造られているエンターテイメントなのですから、美味しかったり面白かったりするのは至極当然の事なのです。感想と銘打つ以上は、その感情が起因する理由を的確に読み手へと伝えられる必要があるのです。
自分の想いを碌に母国の文章に出来もしない国民‥識字率99%オーバーを誇るこの国で、こんな馬鹿げた事があって良いのでしょうか。
語彙の強化
私は、ネットの世界程語彙に溢れたものは無いだろう、と考えています。実際その気になれば、どんな言葉でも拾えるのですから。
にも拘らず、書き手の語彙は低下する一途を辿っています。折角目の前に優れた道具があるのですから、それを使って熟語なり慣用句なりを沢山会得して欲しいものですね。
書き手が文章を携わるのは、それからでも決して遅くは無い筈です。
語句の創造
ネットにはもう1つ素晴らしい役割があります。それは“語句の創造”です。
例えば笑いを意味する語に“w”がありますよね。あれはたった1字で
・ここは笑うポイントだと読み手に訴え掛ける
・少々自嘲気味であったり諷刺気味であったりする
この意味を含有させる事に成功しているのですから、本当に素晴らしいの一言に尽きます。
只、これも使われ過ぎて、その効果が薄れてしまっているのですが。
他にも絶望感や喪失感を表す“orz”や、助言の意味を持たせる手の形を連想した“つ”等、ネットならではの面白い語句が色々生まれています。
これは一意に褒められて良い、ネットが齎した恩恵だと思っています。
更正の対象
こう考えると、ネットは寧ろ日本語をより補完し、統一し、そして発展させる事が出来る、非常に優れた場であると見做せます。
そう、真に改善すべきは書き手であり読み手である我々の方なのです。
意識の向上
語彙は選択肢です。
そしてこの選択肢はあればある程、より的確且つより緻密に、物事を文章へと変換する事が出来ます。
即興で組み立てなくてはならない口頭とは違い、文章には熟考する猶予があります。ならば書き手はもっと、自身の想いを読み手に伝えられる様な文章構成を心掛けるべきだと、私は思うのです。そうすれば読み手も次第に順応して行く事でしょう。
私は、自身の想いを充分に文章化出来無かった時“悔しい”と感じます。逆に文章に想いを載せる事が出来た時“嬉しい”と感じます。そこには文章を書くという行為の、言わば“本質”があるのでは無いでしょうか。
書き手は良い文章を書く義務がある、と私は考えています。無論“義務”という位置付けは人によって変わるでしょう。
が、それでも書き手の各々が文章に対してもっと高い意識を持ってくれたならば、今現在我が物顔で蔓延っている駄文共は、必ず淘汰されて行く筈だと信じて已みません。高い意識は決して“自意識過剰”等では無く、より良い文章を造り出す“自信”へと繋がる筈なのですから。
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