其之玖〜情報の返し縫〜
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一縷の望み
以前私は“現状維持”が情報の弱体化を防ぐ唯一の方法であるという見解を述べました(詳しくは其之参〜情報の行く末〜を参照の事)。その思いは今も変わっていませんが、それだけではやはり余りにもあんまり過ぎます。
あれから私は、それ以外にも自らが取り得る行為は無いものかと考えていました。そして今ようやく1つの答えが見付かりそうなので、ここに記しておきましょう。
意図的変化
私は、情報は2世代で完全に変化させてしまう事が可能だと思っています。
例えば“山”という字の読みである“やま”や“さん”を廃止し、“マウンテン”としか読まないという情報操作をしたとします。当然富士山は“ふじマウンテン”という呼称に改変しますし、山田さんには“マウンテンだ”と名乗らせます。
この意図的な改変をした世代はマウンテンに違和感を感じる筈です。当たり前ですよね。
しかし次の世代は山をマウンテンと読む様に、幼い頃から教育されます。“昔はやまと読んだ”という情報さえ一切遮断してしまえば、そこに違和感を感じる事は出来ません。これが第2世代です。
情報の操作
2世代とは凡そ50年に相当します。今から50年以上前の出来事と言えば‥私が真っ先に思い浮かぶのが太平洋戦争です。
我々の世代は太平洋戦争を体験していませんから、それは飽く迄伝聞を介して知識として得ています。もしこれが一切行われなかったとしたら、つまり戦争等起きなかった事にされていたら‥今の我々はどういう見解を示していたでしょうか。
戦争があったと思っている人に“戦争は無かった”と言っても信じてくれません。ですが、それは逆もまた然り。一度“無い”という常識が組み込まれてしまったならば、それはまた2世代経ない限り修正は出来無いのです。
多角的考察
我々の持つ常識は、先人が組み立てた情報の塊です。しかしそれが常に真であるとは、誰も言えないのです。ではその常識を正しいものとするには、一体何が必要なのでしょうか。
これは先に結論から言ってしまうと、情報源の確認が必要だという事になります。勿論確認する対象は2世代以上前の情報。そしてそれを得た後、多角的且つ総合的に今の常識を判断し、必要とあらば修正するのです。
真偽の程は
今回は便宜上“世代”という言葉を用いていますが、実際には何も世代だけが情報を受け渡している訳ではありませんよね。例えば友人であったり文献であったり。情報を受け渡す媒体やパイプはあらゆる場所に存在しているのです。
友達の友達は必ずしも友達とは限りませんし、3段論法は必ずしも成立するとは限りません。真である時もあれば偽である時もあるのです。そしてこれらの真偽を判断するのは他でも無い、自分自身なのです。
情報の返縫
情報は鵜呑みにしてはいけません。その情報源を調べ、必ず確認してから受け入れる必要があります。
その行為は一見無駄に見えるかも知れません。確かに返し縫は並縫いより時間も糸も2倍使いますからね。しかし返し縫をすれば、並縫いよりも強い縫合を施せます。我々は情報を扱う上で、この返し縫をするべきだと考えています。
情報が溢れ返り、その確かさが曖昧になっている現在に於いて、より重要視されるべきはその強靭さ‥つまり信頼性である筈です。
啓示の範疇
この論は色々と肉付けをしただけで、本質的にはどこも目新しい所などありません。穿った見方をすれば、当たり前の事を理屈っぽく述べているだけなのです。
しかしながら、私はそれでも敢えて文章化したいと思います。何故なら最終的にそうなってしまっただけで、これもまた私の“啓示”という考え方が示す内なのですから。
"百々目鬼"
さて、今回は趣向を変えて引用で締める事にしましょう。それは私が愛聴する陰陽座からの1節。私はこれを教訓とし、決して自惚れない様に、そして決して1つの情報だけに囚われない様に心掛けています。

百々目鬼 - 陰陽座

己も うぬらも 限りない先人の形見を
囓りて 舐りて 明日を生きる餓鬼の群と知れ

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