其之拾〜神之戯言の狙い〜
2K7.3.8
祝10回記念
このエッセイ“神之戯言”も、回を重ねて2桁目を迎えました。
これ迄は何かテーマを設けて文章を組み立てていましたが、今回は記念すべき10回目。ですから、原点とも言える私の文章スタイルそのものについて、少しばかり語っておく事にしましょう。
因みに今回はその扱う内容から現在不適切だとされている表現も含まれますが、私の意見をより解り易くする為には必要不可欠な手段だと思っておりますので、何卒ご理解の程を。
ライン設定
私が文章を書く際は、必ず一定のラインを設定します。
具体的には、“この意見は色々な人に共感して欲しい”と思う様な事を書く際にはなるべく一般的で直接的な表現を用いる様、心掛けています。対して“この論は中途半端な知識・意識を以って読んで欲しくない”と思う時は、敢えて抽象的な言い回しや難しい言葉を使い分ける事で“区別”しています。
つまり、読む側がある一定のラインを超えていないとその内容すら理解する事もままならない様な、言わば篩を掛けているのです。
区別と差別
これはある境界線以下の知識しか持たない者は強制的に弾いてしまう方法ですから、人によっては“差別だ”と言われるかも知れません。
しかしながら私は、区別と差別は同一視してはいけない別のものだと考えています。そう、私が行っているのは飽く迄差別では無く区別なのです。
差別か否か
さて、“差別”という興味深い単語が出て来たので、少々論点はズレるものの、これを掘り下げてみる事にしましょう。
以前私は友人の家を訪れた際、彼のゴルフグラブコレクションを見せて貰った事があります。そして彼はその時、この様に説明したのです。“知人にぎっちょがいて、ソイツの為に用意した物もある”‥と。
この“ぎっちょ”は差別用語です。昔はどの様に使われていたのか、そういった歴史的背景はさて置き、少なくとも現在ではその様に見做されています。ですが、果たして彼は左利きの人を差別する為にこの単語を使ったのでしょうか?
答えは当然、否ですよね。彼はその知人を区別する為に使ったのです。しかもその人の為にグラブを用意した程ですから、寧ろ彼は好意的に接しているとも言えるでしょう。只単に、彼の中では“左利き”という単語に相当する言葉がそれだっただけであり、そこに差別意識等存在する筈もありません。
成立の条件
差別が差別となり得るには、受け手がコンプレックスを持っている必要があります。例えば右利きの人に“このぎっちょめ!”と言い放った所で、これは差別としては全く成立していませんよね。
先程の発言は“左利きだ”という事に対してコンプレックスを抱いている人にしか、効果を示しません。
感情の生成
では、これを前提条件とした上で本題へ戻ってみましょう。私の文章構成法を“差別だ”という人は、裏を返せば少なからず自身の語彙の乏しさや教養の無さにコンプレックスを抱いている、とも取れるのです。
逆にラインを超えている人は、例えば“態々小難しい言葉ばかり使って”と嗤うでしょう。そして中には私に共感してくれる人もいるかも知れませんね。
兎に角この文章を目にする貴方は、私のこの意見に対して反骨精神なり共感なり、何らかの感情を抱いている筈なのです。
ある仕掛け
私が文章を書く上で避けたい事の1つとして、“読み手に何の印象も与えない事”があります。読み手が私の文章に何の興味も意見も持たない事は、絶対にあってはならないのです。
共感して貰えれば、それがベストでしょう。が、世の中には色々な考えを持った人がいるのですから、何時もそんな思い通りに行く訳がありません。ならば次は読み手が何らかの感情を持つ様に、私の文章自体に細工を施すのです。
最悪の場合、それが否定や反骨精神であっても良いでしょう。私はそれでも、私の書いた文が気にも留められないよりかは随分マシだと思っています。
ラインの先
つまり、私がラインを設けるのは何も区別する事だけを目標としているのでは無く、その先で区別された人に自覚を持って貰いたいのです。
“何故この人が書く文章が自分には理解出来無いのか”
“どうしてこの人はこんな表現を用いているのか”
自覚さえあればこういった疑問が生まれ、その人は現状を打開しようと模索する筈です。
私の文章を読んだ事で、今迄は現状に気付きもしなかった人達が自覚を持ち改善しようとするならば、それもまた1つの啓示でしょう。
真なる狙い
私は知識が無い人を一方的に攻めているのではありません。何故なら、最初は誰でも知識を持たない地点からスタートするのですから。
例えば“遵守”という言葉があります。この言葉は余り一般的ではありませんから、知らない人は字の形からつい“そんしゅ”と読んでしまいがち。しかし私は、これは仕方の無い事だと思います。知らない事を予め知っておけと言う方が、無理があり過ぎますからね。問題はその先なのです。
“そんな難読漢字ばかり出して行ったらキリが無い、解る訳が無い”と無知を盾に取られてしまうと、残念ながら私の作戦は失敗だったという事になります。
貴方が今利用しているのは紙媒体では無くインターネットなのです。今“遵守”が読めない人もこの2文字をドラッグし、右クリックをして、検索なり再変換なりをすれば次からは読めますよね。この様に、今現在神之戯言が理解出来無い人も、その恵まれた環境を使えば必ず理解出来る様になるのです。
土俵に立つ
物事を批判するには、先ずはそれなりの理解が必要です。
私の示す意見が、そして書く文章が理解出来無い人は、その土俵にすら立っていないと言わざるを得ません。逆にこれ等を批判出来る人は、どんな感情を抱くにしろ私の言わんとする事は理解出来ている筈です。
と言うよりも、私はここには敢えて一方的な見解しか記していませんから、知っている人が見れば簡単に批判出来てしまう筈です。そして私はこの批判を“その通りだ”と受け入れる他無いでしょう。
例えば足し算を覚えたばかりの子供が“数学なんて必要無い”といった所で、そこには全く説得力がありませんよね。ですが、ノーベル賞を取った数学者が同じ発言をしたならばどうでしょうか。
同じ発言なのにも関わらず説得力に差異が生まれる‥そう、一定の理解を示した者だけが、物事を批判出来る“発言力”を得られるという訳です。
私は神之戯言を読む人に、こんな期待をしているのです。
<<Back
神之戯言
Next>>
inserted by FC2 system