其之拾弐〜文章にタグ付けを〜
2K7.3.11
普遍的手段
世の中には文章が溢れ返っています。
今日のインターネットに於いて扱うテーマは千差万別ですが、それを伝える手段は画像か、音か、或いは文章か‥この3つしか存在しません。
その中で素人でも扱える、誰でも扱える手段と言えば、やはり文章に他ならないでしょう。現に今、インターネット上で文章が溢れ返っている事からも、それは充分に伺える事ですね。
私は以前“書き手の意識”をテーマとしたエッセイを書いた事があります。今回はそれを前提とした上で、具体的な文章の組み立て方を考察して行こうと思います。
自己顕示欲
文章が自動生成されたもので無い以上、そこには必ず書き手が存在します。ではこの書き手は、何を理由に文章を書いたのでしょうか。
この理由は色々あると思います。が、“自分の想いを伝えたい”という考えはそれら総てに共通して言える事だと考えられます。自身の想いを共感して貰いたい、という考えが、そこには少なからず存在する筈です。
他には、“自己表現をしたい”という想いもあるでしょう。自分はこんな事を想っているんだと周りに知らしめる事で、自尊心なり自己顕示欲なりを満たしている訳ですね。
前者は“語彙を増やす事”をその解法の1つとして、私は提示しています。ですからそれは一先ずその落とし所で片付いた事にして、今回は後者を詳しく見て行く事にしましょう。
常識の獲得
文章を自己表現の手段として前提に置き、世に溢れているそれ等を見て行くと、やはりその役割を担うには拙過ぎるものばかりである事を痛感させられます。
具体的には、全く統制が取れていないのです。
“です・ます体”と“である体”の統一は言うに及ばず、文語と口語の区別や句読点の打ち方等‥挙げて行けばキリがありません。しかも、これは総て文章を書く上での言わば“常識”です。
文章が文章である為に最低限守らなくてはならない規則を碌に守ってもおらず、それでも書きたい事だけ書いているのが、目に見えて解ります。
確かに、それも広義の“自己表現”なのかも知れません。しかしそれは、“自分は一般教養が備わっていない人間だ”という意味での自己表現です。どうしてもそれがしたいという人に対してはこれ以上糾弾する事はしません。が、大部分の人はそんな事は意図していない筈です。
そう、勿論書き手はそんな事は微塵にも意図していないのです。但し、文章を読む側の人‥つまり読み手は、果たしてその文章をどの様に受け取るでしょうか。
文章が他人に読まれる事を目的として書いたものであるならば、読み手を意識して書くのは当然です。彼等に良い印象を与えたい‥彼等に想いを伝えたい‥その上ではやはり最低限の文体を、先ずはキープする必要があるのでは無いでしょうか。
本当の自己表現はその先にある筈です。
個性の導入
さて、文章の一般常識を取り入れた人はそれでもう終わりかと言うと、決してそんな事はありません。何故なら、フォーマット通りに書いた文章には何の個性も見られないからです。
ようやくここで、初めて自己表現を取り入れる事が出来ます。自身の書いた文章がそうだと解る様に、自己表現をしておくのです。この方法は常軌を逸したもので無ければ、基本的にどんなものでも構わないでしょう。
以下、その方法が思い浮かばないという人に、私が使っている表現法を幾つか提示しておきましょう。参考にしてみて下さい。
文体の統一
基本的に私は、どんな場合でも“です・ます体”しか使いません。通常批判文や意見文の場合は“である体”の方が適している、とされていますが、それでも私は“です・ます体”しか使いません。
この様に、文章の常識を理解したものが自己を表現する為に敢えてその常識を外すという行為は、私はしても良いと思っています。
日付の表記
私が日付を表記する際は、必ず“YYYY.MM.DD”の表記を用います。更に、年は例えば“2K7”といった様に、千を“K”で表記します。
この表記法を用いている人は余り見掛けられません。故に、この表記がされているものは私が書いたものである、と意識的に思わせる事が可能です。
引用符の型
通常日本語の文体で台詞を表す時は「」を使います。が、私は引用であろうが台詞であろうが注視であろうが総て“”を用います。
これは、単に“”が好きなだけです。つまり只の拘りなのですが、それでもこの表記を徹する事で、私の文章は統一感を持っていると自負しています。
リーダの型
リーダには“―”や“…”等がありますが、私は必ず“‥”で統一しています。
これも只の好みですが、“―”や“…”が使ってある文章は私の文章では無いと判断する材料になっています。
タグ付けを
この様に、ほんの些細な事でも拘りを持って、意識して書く事で文章には個性が生まれます。現に、私の書く文章はそんじょそこらのものとは確実に違います。
これを下らないと一蹴してしまう事は簡単です。しかしながら、私はインターネット上で唯一簡単に個性を表現し得る手段である文章を、周りのそれと同じ様な所で蠢かせてしまうのは避けたいと思っているのです。
上述の様に拘りを持って私の文章に“タグ付け”をする事で、私ならではの個性が生まれるのです。そしてそれこそが、文章を介した自己表現の手段だと言えるのでは無いでしょうか。
口語と文語
では最後に、上記の見解を持つ私がもう1つ、意見を示しておきましょう。それは、“日本語の乱れ”に対するものです。
私は、近年議題に上がるこの日本語の乱れは、言語の宿命だと考えています。第一、言語等その時その時で移り変わるものですから、これを議論する事自体が不毛だとも思っています。
確かに、“来れる”や“思ってる”に違和感を抱かないと言えば嘘になります。現に私も表記する際は必ず“来られる”或いは“思っている”としている程ですからね。が、それは飽く迄表記する際の話。実際に口に出して言う時は、寧ろ前者を良く使っていると思います。
そこで私は、これを“口語と文語の違い”の範疇だと見做す事にしています。日常会話で第3者を“彼”とは呼ばずに“アイツ”と呼ぶ様に、逆に文章で方言や“ウザい”なんて言葉は使わない様に、“日本語の乱れ”もその範疇だと考えているのです。
そして更にこの話は、先程の話とも繋がります。
私は自己表現であれば、例え切り出しがこんにちわであろうとも、幾ら確信犯や役不足を違った意味で用いようとも、的を得ようとも間際らしかろうとも構わないと思っています。当たり前ですが、これを妄信的に擁護している訳ではありません。絶対に“それを本来は間違いだと理解した上で”という前提の下での話です。
こういった知的な自己表現は断じて無知を晒している訳では無く、寧ろ日本語を愉しんでいるとは取れないでしょうか。
尤も、今いる大部分の書き手が未だこのレベルに迄到達していないのもまた事実。ですから、この話はここで一先ず止めておきましょう。そう、総ての書き手が一般常識を持つその日迄は。
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