其之拾伍〜理想の理想〜
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理想の存在
人には“理想”があります。これは千差万別の存在ですから、私の理想と他人の理想はなかなか相容れない訳ですね。
今回はこの理想を、そして理想のギャップを考察して行こうと思います。
理想の相違
私に取っての理想と他人のそれに生じるギャップ‥これは一言で言うなら見解の違いです。個々の考え方に因って理想もまた変わって来ます。理想が到達点だとするならば、その到達点を左右するのもまた個性に他なりません。
所で、理想とは対比に置かれているものとして“現実”という存在がありますよね。つまりは今いる位置の事です。理想が現実からの希望である以上、現実もまた人夫々だという事が言えそうです。
現実の存在
私から見た理想の存在は、必ずしも万人に取っての理想とは限りません。また同様に、現実の存在も然りです。もっと言えば、私が今既にいる位置が誰かに取っては理想である可能性もあります。現に、私が掲げる理想の位置にいる人がいる程ですからね。
理想は飽く迄相対的なものであり、絶対的な理想等存在しない‥と結論付けてしまうのは取り敢えず先送りにして、誰かの理想が他の誰かに取っての現実であるという状況は、起こり得るものだとしておきましょう。
理想の対象
では、現実を人はどの様に捉えているのでしょうか。これも詰まる所は個人の観点に因るのですが、私の場合現実は最低限です。理想を掲げる時、現実に持ち合わせている技術なり知識なりを最低限として考えるからです。
確かに技術や知識は理想の存在となり得ます。しかしながら、それ等は習得した時点で自分に取っては最低限の存在となってしまう‥という感覚でしょうか。
尤も、それは私の時間を消費して実現させた現実ですから、当然だとも言える筈です。そしてそれ等を得ようとしなかった者に取っては、幾ら時間が経過しようとも理想のままなのです。
現実的理想
自身の掲げる理想の位置に人間がいる以上、その位置を自分の現実とする事は殆どの場合に於いて出来る筈です。何故なら掲げられる理想はそれ迄の現実を元に生み出されたものである“現実的理想”なのですから。
また逆に、その人の考えが及ばない部分に関しては理想にすらなり得ません。これが今回の主点である“理想の理想”です。
理想の理想
ある人が掲げる理想の位置にいる存在が掲げる理想は、そのある人に取ってはなかなか理解し難いものだと思われます。これはそもそもの最低限の基準が違うからです。
理想の構造
理想の理想を掲げた人に取ってはそれが先の現実的理想であったとしても、元々が理想である人には解らないのです。
判断基準が現実から生まれて来てしまう以上は、この状況はある意味避け様がありませんね。
現実の享受
またこれも見解の違いと言われればそれ迄なのですが、この理想の理想を現実として享受出来るならば或いは、まだ解法は存在すると思います。
但し、大部分の人はこれを夢物語に置換してしまい、結果として理想の理想は2段階以上離れている人には全く理解出来無い存在に位置付けられてしまいます。
これはつまりは現実として享受させる事が既に理想の理想‥なのでしょうか。
理想の享受
理想のギャップを解消するには、先ず理想の理想を現実の存在として受け入れる必要があると思います。この考えを理想としてしまうと繰り返しになるので、一先ずはこれを最低限としましょう。
理想の理想を実現させ、存在するものとして見るかは兎も角として、理想の理想を享受しておかなければそこに到達する事すら不可能なのです。そして理想の理想を只の理想に繰り下げられる人間こそがまた、理想をも実現させられる人間なのだと言えるのでしょう。
理想の理想は確かに不安定極まりない存在ですが、それを直視し、現実的理想へと置換出来れば或いは‥と思うのも所詮は夢物語なのかも知れませんね。
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