其之参〜情報の行く末〜
2K7.2.20
強烈な諷刺
“京都って皆"どす"とか付けて話すの?”
少し前に、私にこんな事を訊いた人がいました。‥どうやら“一億総白痴化”は着々と進行中な様で。
凡そ40年前に提唱されたこの強烈な諷刺は、差別用語を平気で用いている事や視点が一方的な事から、余り良いものとはされていません。が、私は実に的を射た論だと思っています。
媒体の推移
現代社会に於いて、情報が非常に重要な役割を担っている事は、最早言う迄も無いでしょう。そしてこれを伝達する手段‥つまり媒体-Media-も、時代の変化に伴って多様化の一途を辿って来ました。
今、媒体の主格はインターネットになろうとしています。正にこの文章を提示している場であるネットの世界ですね。一昔前には“IT革命”なんて言葉も流行った様に、2007年現在この構想は我々の生活に根付く事で実現しているのです。
情報と常識
情報は我々の生活を革命的に支えてくれている事は明らかです。が、同時にこれは画一的に仕向けているとも言えます。先に挙げた“一億〜”の危惧する所はその状況に他なりません。
つまり、同じ情報元から生まれた情報が、我々の常識や判断基準となる可能性があるのです。いえ、頭の例を加味すれば、もう既になりつつあると言っても決して過言では無いでしょう。
玉石の混在
勿論この情報が正確なものであるならば、何の問題もありません。寧ろそれは前々回記した私の“啓示”という考えとも共通するものがあります。
ですが実際は違います。違うと明言出来ます。
玉石混淆と表すと解り易いでしょうか、情報の世界には価値のあるものと低俗なものが混在しています。これを取捨選択出来るかどうかが問われる社会となっているのです。
情報の世代
恐らく今この文章を読む貴方には、その判断能力は充分に備わっていると思います。本当にギリギリの世代ですが、そうだと思っています。
その次の世代となると‥少し厳しいものがあるかも知れません。これはもう直感的、本能的に備わっている判断能力すら弄られてしまっている世代だからです。
インターネットが世間に普及し始めたのは90年代。我々ですらその判断に悩まされるシーンがあると言うのに、まだそれが判断能力の培われていない子供だったら一体どうなるのでしょうか。想像しただけでも恐ろしい事ですね。
真なる危惧
情報は良い意味で統一されるべきですが、悪い意味では統一されるべきではありません。
‥何か変な文章ですが。
私は仮にも情報を扱う者です。もっと言えばそれを生み出す側の人間。但し、これは何も私だけに与えられた権限では無く、誰にでもし得る事である筈です。
私が本当に危惧しているのは、実はここにあります。
今風の読み
重複、施行、追従。
これらを総て綺麗に読める人は、一体この日本に何割残っているのでしょうか。“どちらでも良い”とされてしまった現状にこそ、情報の悪影響が垣間見られると思うのです。
元来それを正しく伝える役割を担う教師やアナウンサーですら、その扱いはバラバラです。寧ろ今風の読み方をする人の方が増えているのでは無いでしょうか。
木構造の根
物事は総じて簡単な方へと流れてしまう傾向があります。そしてその木構造の先にあるのは“根”‥そう、“1”です。
我々はこれに抗う事は不可能でしょう。が、せめてその枝を維持し、選択肢を次の世代へと継承する事はしないと、次はもっともっと酷くなってしまいます。今はこうなってしまったが、昔はこの様な考え方もあった‥と、後世に教えてやる存在が必要なのです。
現状維持‥なんて言ってしまうと何か発展性を持たない様な、ネガティブなイメージですね。それでも今実現し得る現実的な解法はこの手段しか無い様な気が、私はするのです。
情報を扱う側の人間。それがこの程度の解しか見出だせないとは、何とも哀れな姿ですね。
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